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沿革史
□ 南北朝以降の神護寺
世は南北朝に分かれての戦乱となり、当寺も天文年中(1532~55)には、兵火によって建物のすべてを焼失した。
慶長五年(1600)には「一山三衣にも事欠く有様なれば、願わくは寺領境内地先規の如く返附せられ度云々」と、その窮状を陳情し、それに対し翌年七月、徳川家康より旧来の寺領千五百町歩が返還された。
更に、元和元年(1615)に讃岐屋島寺の龍厳上人が入山し、上人に帰依する京都所司代板倉勝重が奉行となって再興に着手する。
江戸時代中期には堂宇七、支院九、僧坊十五を数えるまでに再興された。
ところが、明治維新後の廃仏毀釈によって愛宕山白雲寺は消滅、当寺も開創以来維持されてきた寺域はことごとく分割のうえ解体され、支院九と十五坊はたちまち焼失、別院二ヶ寺と末寺のすべては他寺に移された。
昭和十年(1935)、現在の金堂、多宝塔ほかが山口玄洞居士の寄進により再興され旧堂も修復された。
昭和二十七年(1952)、寺領の一部を境内地として政府より返還され今日に至っている。
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