□ 灌頂暦名
空海が密教の入門儀式である結縁灌頂を行った手控えで、弘仁三年(812)十一月、十二月、翌年三月の三回分の記録。 結縁者の筆頭に最澄の名が記されているのも印象的である。 また、最澄、空海が決別する原因のひとつとなった泰範の名が記されているのも興味深い。 わが国宗教史の上で重要な古記録であるとともに、心覚えのために書き流した書であるため、空海の自由闊達な書風を知ることができる貴重な資料ともなっている。 灌頂暦名はその後、天仁元年(1108)、白河院の御所のおまもりに取り上げられた。 そして鳥羽離宮内の勝光明院宝蔵に収められていたが、徳治三年(1308)に後宇多法皇によって神護寺に返還された。 このことは、それに付属する後宇多法皇の施入状によって明らかである。