□ 平政子書状
頼朝夫人政子が文覚の弟子上覚に出した返書とされる。 男まさりの政子の性格がうかがえる堂々たる筆跡である。 寿永二年(1183)、平家との戦を進める木曽義仲は、息子の志水冠者義高を人質として鎌倉に送ってきた。 頼朝は義高を大姫の婚約者に定めた。 義高十一歳、大姫六歳のころであった。 ところが、頼朝と義仲は対立し、寿永三年、義仲が討ち死にすると、ほどなく頼朝は義高を斬首した。 大姫は、子供心に大きな傷を負った。 義高の死以来、日ごとに憔悴し、その傷は二十歳で世を去るまで癒えることがなかった。 娘を失った政子の下に上覚上人からお悔やみ状が送られ、それに対してゆれ動く母親の嘆きを吐露した手紙が本状である。